札幌 マンション RMT

僕と彼女と写真が一枚



          1

 最初はシャッターを切る音だった。
 京介が振り返ると、一眼レフカメラのファインダーを覗き込んでいる一人の女の子がいた。茶色がかったロングの髪の毛を時折うるさそうに掻き上げ、一心不乱に何かを撮影していた。
 そのカメラの先には中学校のグラウンドがあり、サッカー部の練習が行われている。今年のサッカー部は、県大会でもいいところにいくだろう、と言われているぐらいの強豪だから、練習も熱が入っていた。
 彼女はどうやらその練習風景を撮影しているらしい。
 新聞部だろうか。
 そう考えたが、新聞部なら活動の際は必ず腕章をつけているはずだ。それによりカメラの所持と各部活などへの撮影が許可されていると聞いたことがある。そんな水戸黄門の印籠みたいな腕章、つけ忘れるとも思えない。
 なら彼女は、ただの趣味で撮影しているということだろうか。サッカー部の男子は、確かに人気がある。そのために写真撮影する女子がいるにはいるが、それにしては、真剣さが違う気がする。
 京介と彼女との距離は、五メートルも離れていない。それでも彼女はこちらを向こうとはしなかった。
 彼女がカメラから顔を離し、自分の撮影した写真を確認し始めた。その途中で、京介の視線に気づいたのか、彼女はこちらを向いた。
 顔を見た瞬間、目鼻立ちから外国人とのハーフだとすぐに京介は思った。
 彼女は迷惑そうにも、親しげにも見えない、感情のこもらない視線を京介に一瞬だけ向けて、すぐにカメラへと視線を落とした。
 興味がない。どうでもいい。
 そんな目だった。
 京介はそのことに狼狽した。なにか取り繕わなければいけない気がしたけれど、なにを言っていいかもわからなかった。結局何も言えずにいると、彼女はいつの間にか立ち去っていた。
 それが柿沢京介と桐原舞の出会いだった。

          2

 窓から差し込む日差しがまぶしい。
 目を細めて、京介は生徒たちで賑わっているグラウンドに目をやった。自然とため息がもれる。
 今日、数十回目のため息だ。
「なに辛気臭い顔してるんだよ。梅雨は先週で明けたばかりだろうが」
 京介が顔を上げると、友人の田所が目の前に立っていた。呆れたような顔をしている。
 今は昼休み。天気がいいこともあって、教室に残っている生徒は半分ぐらいだった。
 開け放たれた窓からざわめきが聞こえてくる。グラウンドでサッカーをやっていた。部活じゃなく、単なる遊びらしい。
「なんでもないよ。なんかこう、気分が晴れないっていうのかな。もやがかかったみたいでさ」
「五月病には二ヶ月遅いぞ。ったく、シャキッとしろよ。ナメクジみたいな顔をするな」
 田所は前の席が空いていたので、イスを引っ張り出して後ろ向きに座った。
 がっしりとした体つきと短く切った髪の毛が、いかにも体育会系といった雰囲気を醸し出しているが、田所は学校の部活には入っていない。
 その代わり、小学生の頃から中二になった今も柔道の道場に通っている。かなり強いらしく、大会などで上位入賞しているのを何度も見たことがあった。
「ナメクジに顔なんてあるのか?」
 京介は田所の方を向いて言った。
「あるんじゃないのか。あれだって生き物なんだから」
「ま、あってもなくてもかまわないけどさ」
 本当にどうでもよい話だ、と京介は思った。
 ナメクジについて語り出した田所を放っておいて、京介は視線をもう一度グラウンドに向けた。その視線が、サッカーゴールの脇で止まる。
「あっ」
 京介は思わず声を上げた。
「なんだ?」
 田所が驚いたような顔をしていたが、京介は取り合わない。身を乗り出すようにして、目を凝らす。
 京介の視線は、サッカーを楽しんでいる生徒を撮影する女子の姿を見つけていた。あれは、この間の女の子――桐原先輩だった。
 京介が気になって、彼女のことを調べるのにそれほど苦労はしなかった。あれだけ目立つ容姿だ。同学年にいないのはわかっていたので、あとは一年か三年しかない。それもすぐに誰だかわかった。
 三年生で名前は桐原舞。京介の思ったのと違い、ハーフではなくクォーターだった。母方の祖母がイギリス人なのだそうだ。カメラはいつも身につけていて、一年の頃は教師に注意もされたらしいが、二年の頃に大きな写真コンテストで入選したらしく、それからは黙認されているらしい。
「誰かいるのか?」
 田所が立ち上がって、窓の外を見た。
「いや。勘違いだったみたいだ」
 京介は窓から体を離し、首を横にふった。
 田所は訝しげに京介を見ていたが、すぐに興味を失ったのか違う話題を話し始めた。
 京介はその話に適当に相づちを打ちながら、ぼんやりと桐原先輩の姿を思い浮かべていた。


 どうやら一目惚れしてしまったらしい。  京介がそのことに気がついたのは、桐原先輩と出会ってから五日後のことだった。
 自分の鈍さにちょっと呆れるところもあるが、こんな風に人を好きだと思うのは初めての経験だった。
 気がつくと、朝、学校に来るなりキョロキョロと辺りを見回していたり、休み時間になれば教室からグラウンドを眺めたりしていた。
 三年生とか先輩という単語に敏感にもなった。他にも思い返せば色々ある。それらをよくよく考えてみると、桐原先輩につながっていることに京介は気づいたのだ。
 今まで人を好きになったことは、もちろんあった。それでもこんな自分が変わってしまったみたいになることは、一度もなかった。
 そんな自分の感情が、京介は怖くてしかたがなかった。なにかの話で桐原先輩の話が教室で出たときなんかは、心臓が激しく鳴って苦しさにうずくまりそうだった。
 だから、あれから一度も、京介は放課後のグラウンドに足を向けようとは思わなかった。もし、偶然にでも桐原先輩に出会ってしまったら、自分がどうなるのかわからなかったから。
 なのに今、京介はグラウンドに来ていた。桐原先輩に会うためではない。幼なじみの白内春菜を待つためだった。
 春菜とは、小学校入学からの腐れ縁だ。家が近所だったのと、同じ陸上クラブに入っていたのとで、自然と仲が良くなった。だけど、中学に入ってからは春菜は中学の陸上部に入部して、京介は帰宅部を選んだことで疎遠になった。
 春菜からは何度も陸上部に誘われたが、京介は断り続けた。走ることが嫌いになったわけではないし、今はともかく一年当時の実力だったら、学年でもトップクラスだった自信はある。ただ、部活で走る気にならなかっただけだ。競うことにうんざりしたのだ。
 そんな春菜から、久しぶりに呼び出されて応じたのは、桐原先輩のことがあったからだ。
 桐原先輩にではなく、春菜に会いに行くだけだ、と自分に言い聞かせれば、京介は放課後のグラウンドにも足を運べた。自分でもずるいと京介は思ったが、なりふりを構えない余裕のなさがあった。
 だが、グラウンドでは陸上部とサッカー部が練習していたものの、桐原先輩の姿はなかった。
 安心したような、残念なような半々の気持ちを抱えながら、京介は校舎の外壁に寄りかかるようにして、日陰で待つことにした。
 七月の日差しは、夕方とはいえ頭をくらくらとさせる。よくこんな中で、運動部は練習ができるものだ。
「ごめん。待たせたかな」
 日が傾き、夕日に変わった頃、春菜が京介の前にやって来た。
 ショートカットの黒髪に、はにかんだ笑顔がどこか小学生の頃を思い出させた。
 背の高さは、京介がようやくこの春に追いついたぐらいで、女子にしては高い。顔や制服から出た腕や足は、フランスパンみたいな色に日焼けしていた。
「別に。待つのは得意だ」
 京介は息を切らしている春菜に答えた。
 しばらくぶりの会話のはずだが、戸惑いもなく言葉が出てきたことに京介はほっとした。
「ならいいんだけど」
 春菜はにっこりと笑うと、行こ、と言って歩き出した。
 京介はうなずいて、後を追う。
 並んで歩くのは、少しばかり京介には抵抗があったが、春菜は構わずに隣で歩調を合わせてきた。
 春菜からデオドラントスプレーの甘い香りがする。うっかりすると腕がくっつきそうなぐらい、春菜が近くにいた。京介は歩きながら春菜から少し離れた。
「あのさ、今度の日曜日って予定ある?」
 不意に春菜が言った。
「ないけど。いきなりなんだよ」
「どっか行かない? 久しぶりにさ」
 春菜は明るい口調で、笑顔を見せた。
「どっかって、どこだよ」京介は突然の話に苦笑いする。「そもそも、他に誰が来るんだ?」
「私と京介だけ」
 春菜の答えに、京介は足を止めた。
 春菜は京介より三歩ほど進んでから、振り返るようにして、こちらを見た。瞳の色は冗談だといっていなかった。
 笑い飛ばそうとして開きかけた口を、京介は閉じた。言葉が出てこない。ようやく今がどういう状況なのか飲み込めた。
 つくづく自分は鈍感だと、京介は思った。
 ただ状況は理解しても、なんと言っていいかわからない。いきなりデートに誘われて、どう答えればいいというのだろう? それともこれはそんな重要に考えず、幼なじみとして受け答えればいいのか?
「……そんなに悩まないでよ。傷つくなぁ」
 ぽつりと春菜が言った。
 さっきとは打って変わって、か細い声だった。京介はそのギャップに、思わず顔をうつむかせた。こんな春菜の声は、数えるほどしか聞いたことがない。
「中学に入った頃から、京介と話す機会が減っちゃったでしょ。だから、たまには幼なじみとして、遊びに行くのもいいかな、と思っただけなのに……」
「ごめん。驚いただけで、嫌ってわけじゃ――」
「……と、言おうと思ってたんだけど、やめた」
「えっ?」
 京介は春菜の言っている意味がわからず、眉根を寄せた。
「幼なじみとして、なんて嘘だよ。京介が……京介のことが好きだから誘ったの」
 春菜は真っ直ぐと京介を見つめてきた。京介はその視線に耐えられず、目線を逸らす。
 春菜が大きくため息をついた。
「あ〜、本当は告白するつもりなんてなかったのになぁ。部活帰りの汗だくのときなんて、全然雰囲気ないよね」
 春菜はわざとらしく明るく言って、ぎこちなく笑った。
 その間に、京介は必死に答える言葉を探していた。
「あの……さ。俺は」
「いい! 今は返事はいいから。一週間考えて。お願いだから」
 春菜はまくし立てると、そのまま後ずさりする。
「それじゃあ、わたし。ここから走って帰るから」
「あっ……」
 京介になにも言わせないまま、春菜は走って行ってしまった。すぐに曲がり角で姿が見えなくなる。
 呆然としたままだった京介は、そこでようやく体の緊張が解けた。
「告白だよな、今の」
 そう呟きながらも、京介の頭に浮かんでいたのは、春菜の姿ではなく桐原先輩の姿だった。
 罪悪感でしゃがみこみそうだった。

          3

 翌日。京介は桐原先輩の姿を探すことより、春菜と出くわさないことに気をつかった。
 今会ったら、どんな顔をすればいいのかわからない。少なくとも、今までみたいな軽い挨拶はできないだろう。
 昨日の夜だってよく眠れなかった。春菜と桐原先輩の姿が交互に思い浮かんだ。
 もし、なんて仮定するのは卑怯かもしれないが、もしも春菜の告白が桐原先輩と会う前だったら、結果は違ったかもしれないと、京介は何度も考えた。
 でも、今の京介は間違いなく、狂いなく、どうしようもなく、桐原先輩が好きだった。会ってから、まだ一月も経っていない相手なのに。
 京介は、自分で自分の考え方がわからなかった。どこかで頭のネジをゆるめてしまってきたのだろうか。
「なんて顔してんだよ。まるで、塩をかけられたナメクジだな」
 いつの間にか田所がやって来ていた。それにしても、ナメクジの例えにどうしてこだわるのだろうか、こいつは。
「塩をかけられたナメクジは、消えてなくなるだろうが」
「つまり、今にも消えてなくなりそうな顔をしてるってことだよ」
 田所は肩をすくめて盛大なため息をついた。
「そんな顔してたか?」
「違う。してる、だ。現在進行形」
 田所は顔と体格を似合わず、勉強が出来る。現在進行形なんて、英語の時間以外で聞きたい言葉じゃないが、田所から聞くと、柔道の投げ技の名前に聞こえるから不思議だ。
「それで何の用だ? もうとっくにホームルームは終わったぞ」
「わかってる。帰ろうとしたら、京介を呼んで来てほしいって、頼まれたんだよ」
「俺を?」
 一瞬、春菜の顔が浮かんだが、すぐに打ち消した。向こうの区切った期限は一週間だ。まだ一日しか経っていないわけだから、考えられない。
「誰が呼んでるんだ?」
「あの廊下にいる女子の先輩だよ。確か、桐原先輩とか言ったっけ。写真で有名な先輩だったよな」
 田所が指さした廊下には、手持ちぶさたな様子で立っている桐原先輩がいた。京介の心臓の鼓動が、指の先まで伝わるぐらい速くなる。
「そ、そうか。ありがと。じゃあ、ちょっと行ってくる」
「大丈夫か? 今度は顔が赤いぞ」
 背中に田所の声を聞きながら、京介は廊下に出た。
 田所が京介以上に恋愛方面に疎くて助かった。でなければ、京介の表情を見ただけで、気持ちを見透かされていただろう。
 桐原先輩は、京介の姿に気づくと、寄りかかっていた壁から体を離した。
 気だるそうな様子で、京介に近寄ってきて言った。
「ついてきて」
 それだけで京介に背を向け、桐原先輩は廊下を歩いていく。いきなりのことに京介も首をかしげたが、桐原先輩の背中が見えなくなって、あわてて後を追った。
 桐原先輩は階段をのぼり、三階にある美術室の前で止まった。そのドアをノックもせずに開ける。
 京介も桐原先輩に続いて中に入るが、誰もいなかった。ガランとしていて、机とイスが並ぶ以外は、壁際に彫りの深い顔の石膏像が置いてあるだけだった。
「あの、なんですか? こんなところに連れてきて」
 さすがの京介も、不安に思った。よく考えてみれば、こちらは桐原先輩を知っているが、向こうは京介を知っているわけではない。
 なんとなく桐原先輩に親近感を覚えていたが、冷静に考えれば一方通行の思い違いだ。
「これ」
 そう言って桐原先輩は、ポケットから一枚の写真を取り出して、京介に向けて差し出した。
 京介は写真を受け取り、言葉を失った。
 写真は昨日の帰り、春菜が京介に告白しているところだった。いや、客観的に見れば告白しているようには見えないかもしれない。春菜は無理矢理っぽいとはいえ笑っていたし、京介にいたっては、背中を向けている。
 だが、問題はそこにあるわけじゃない。桐原先輩がこの写真を持っているってことだ。
「ど、どうしてこれを?」
 京介は、動揺しながらきいた。
「通りかかったら、グウゼンね」
 桐原先輩が軽い口調で答えた。ウソだということは、京介じゃなくても思うだろう。
「別にこれは、そんなんじゃなくて……。春菜とはなんとも――」
 京介はあわてて、言いつくろう。
「そんなことはどうでもいいわ。この女の子、白内春菜さんのことでお願いがあるの」
 桐原先輩は京介の言い訳なんて、最初から聞くつもりはないらしい。京介は話を合わせることにした。
「お願い、ですか?」
「この子の写真を、撮りたいんだけど」
「写真って、桐原先輩が春菜をですか?」
「そう言ったつもりだけど。どうかしら? 頼んでもらえないかしら」
 桐原先輩から、さっきまでの気だるげな雰囲気がなくなっていた。
 写真については真剣なのかもしれない。
 まったく予想外の展開すぎて、京介は頭の中を整理しきれていなかったが、それでも思いついた疑問を口に出した。
「……直接、頼まないんですか?」
「わたし、女の子に嫌われるのよ」
 しれっとした顔で、桐原先輩は言った。茶色い瞳が、静かに京介を見つめていた。
 京介は、わかりました、と返事をするしかなかった。
 なにがわかったのか、さっぱり自分でもわからなかったが、とにかく桐原先輩とのつながりができたことは、素直に喜ぶべきことだ、と京介は思いこむことにした。
 あとで、ものすごく後悔することも知らずに。

          4

 自分の部屋のベッドに寝転がりながら、桐原先輩からもらった写真を京介は眺めていた。
 写真の中で、春菜がぎこちない顔で笑っていた。今、冷静に見てみれば、かなり無理していることが京介にもわかった。そんな顔をさせた自分に、京介は苛立ちを感じる。自分で自分を殴り倒したい気分だった。
 なんて春菜に切り出せばいいだろうか。まだ告白の返事すらしていないのに。
 そう考えるだけで、京介は春菜のことも、桐原先輩の頼みも投げ出したくなる。桐原先輩の頼みが、もし他の女子だったら、京介だって困らなかった。ただ、春菜じゃなければ桐原先輩は京介に頼みに来なかっただろう。
 理屈はわかる。でも、感情が追いつかない。いらいらした。握りしめた左の拳を、軽く額に当てる。目を閉じて、感情の波をやり過ごした。
 しばらくの間そうしてから、京介は目を開けた。
 心は決まった。


 昼休みになると、京介は隣の春菜のいる教室に行った。
 隣の教室も、京介の教室と同じく、生徒は半分ぐらいに減っていた。それでも教室の中に入るのはためらわれたので、開け放たれたままのドアから中をのぞいた。
 春菜の席は知らないので、視線を一巡りさせる。いた。廊下側の後ろの席だ。女友達三人とお弁当を食べていた。
 直接声はかけづらかったので、知り合いの男子に出てきてもらうように京介は伝言を頼んだ。頼まれた男子が意味深な顔をしていたが、京介は気にしなかった。ここ数日の出来事で、多少の度胸がついたのかもしれない。
「……なに?」
 数分して春菜が教室から出てきた。
 春菜がいつものはっきりとした口調じゃないのが、京介の心を重くした。それでも頼むと決めたのだ。
「あのさ、今度の日曜日って空いてるか?」
 京介の言葉に、春菜が驚いたように目を大きく見開いた。
「えっ、それって……」
「ごめん。違うんだ。この間の返事とは関係ない話なんだ」
「関係ない話ってどういうこと?」
 春菜は不安そうな目をして、京介にきいた。
 京介は、昨日何度も家で練習した、桐原先輩の頼みについて説明した。わかりやすく、よどみなく、ただし、京介の気持ちは悟られないように。
 聞き終わった春菜は、黙っていた。よく見ると、わずかに下に向けた顔は、くちびるを噛みしめていた。
「春……」
 京介が言いかけた言葉を遮るように、春菜が顔を上げた。
「……馬鹿じゃないの。行くわけないじゃない!」春菜は涙をためた目で京介をにらみつけた。「どうしてそんな頼みを聞かなきゃいけないわけ? ほんと馬鹿みたい」
 春菜はそのまま、教室には戻らずに廊下を駆けていく。京介は追えなかった。こうなることは、半ば予想していた。これでも春菜とは長い付き合いだ。どんな反応をするかぐらいわかる。
 それでも京介は、桐原先輩の頼みを叶えたいと思ってしまった。
「ほんと、とんでもない馬鹿だよな……」
 廊下じゃなければ、京介は空を仰ぎたかった。


 放課後、京介の携帯電話に一本のメールが届いた。
『何時にどこに行けばいいの?』
 春菜からの、オーケーの返事だった。
 京介は時間と場所を打ちこんで、メールを返した。お礼の言葉は結局打てなかった。


          5

 日曜日は快晴だった。
 もうすぐ夏休みという時期だから、日差しもその分容赦なく強かった。
 陸上部で慣れている春菜は、さすがに暑さに強いらしく、時々まぶしそうに空を見上げたりしていた。服装も京介が何度か見たことがある、Tシャツにデニムのパンツ姿だった。
 桐原先輩はボーダー柄のキャミソールに白いカーディガンを羽織り、薄いピンクのフレアスカート姿で、大きなバッグを肩にかけていた。
 バッグは、持ちましょうか、と京介が声をかけたのだが断られた。
 理由は、
「カメラが入ってるから」
 だそうだ。
 駅前で待ち合わせた京介たちは、すでに自己紹介は終えている。春菜が怒っているのではないか、という京介の心配をよそに、春菜は何事もなかったかのように、いつもみたいに明るい笑顔で桐原先輩に挨拶をした。京介に対しても、以前と同じように軽口を叩いていた。
「じゃあ、始めましょうか」
 公園に着くと、桐原先輩はバッグからカメラを取り出した。
 まずはカメラとモデルのチェックということで、適当な大木をバッグに桐原先輩はシャッターを切っていく。
 時折カメラを確認しているのは、デジタルカメラの液晶画面だろう。京介はよく知らないが、一眼レフのデジタルカメラといえば、十数万円はするのではないだろうか。
 そんな高価な品、京介だったらおいそれと持ち出すことなどできない。でも、使わなければもっと勿体ないのだろう。
「京介君。ちょっと、これ持ってくれる」
 桐原先輩に白いパネルのようなものを渡された。レフ板というそうだ。
「それに太陽光を当てる感じで……うん、それでいい」
 京介は指示された通りにレフ板を構えた。じっと立っているだけでも、頬に汗が流れていく。その汗も、すぐに日差しが蒸発させてしまうような暑さだった。
 休憩を何度か挟みながら、撮影は続いた。途中から、桐原先輩に言われ京介も春菜と一緒に並んだ。
 京介としては、桐原先輩に春菜とのツーショット写真を撮られるのは抵抗があったが、春菜は嬉しそうだったから、特になにも言わなかった。
 春菜が今何を考えて思っているのか、京介にはわからない。それでも、表面上の明るさが真実ではないことぐらいはわかる。  うまくいかないものだな、と京介はあらためて思う。
 もし、違う形で桐原先輩と春菜が出会っていたら、いい友人になったかもしれないのに。
 桐原先輩を好きになってから、もし、と仮定することが多くなった気がする。実際には起こらなかった可能性。それを考えてしまうのは、京介自身が自分の身勝手さに折り合いをつけるためかもしれない。
 自分のせいで、誰かが悲しむのは、京介が一番嫌うことだったはずだ。人は変わっていくといっても、こんな変わり方は望まなかった。
 今さら言っても仕方のないことなのだろうけれど。
 撮影は夕方になって、ようやく終わった。
 三人ともくたくたになっていて、どこかのお店に寄っていく気力もなかった。
 駅についたところで、春菜に母親から電話がかかってきて、先に別れることになった。
「じゃあ、また月曜日に」
 春菜は最後まで笑顔で言って、街中の人混みに消えていった。
 残された京介と桐原先輩は一緒に電車に乗り込んだ。
 お互い無言のまま、車窓から外を眺める。
 最寄り駅について改札を出て、肩を並べて歩き出した。
 京介はそこでようやく、気になっていたことを質問した。
「どうして、春菜のことを撮りたいと思ったんですか?」
 頼まれた時は思い至らなかったが、あらためて考えてみると、春菜はそれほど目立つ存在というわけじゃない。桐原先輩が被写体に選ぶ理由が思い浮かばなかったのだ。
 桐原先輩は少しだけ顔を京介の方に向け、唇の端をゆるめた。
「恋してる彼女がきれいだったから」
 初めから用意されていたかのような、よどみのない答えだった。
 やはりあの写真を撮られたとき、聞かれていたのだろう。春菜の告白を。
 心臓の音が、京介の全身に響き渡っていた。
 住宅街に入ったため、今、京介たち以外に人気はない。伝えるのなら今しかない。これは勘だけれど、一度春菜を撮った以上、桐原先輩が京介に頼ることはもうないだろう。こんな風に歩くことも二度とないチャンスかもしれない。
「あ、あの」
 京介は声をかけ足を止めた。
 桐原先輩は立ち止まり、怪訝そうに振り返った。
 陽に当たった長い髪が、よりいっそう茶色に見えた。
「俺、桐原先輩のことが好きです」
 これ以上ないというくらい緊張していたはずなのに、言葉は詰まることなく言えた。
 一度も練習すらしていなかった言葉だというのに。
 桐原先輩は、しばらく京介を見つめていたが、不意に首から提げていたカメラを構え、京介に向けてシャッターを切った。
「いい顔してるわ」桐原先輩はカメラを下ろす。「でも、ごめんね。そういう気持ちはわたしにはないわ」
 それだけ言って、桐原先輩は歩き出した。京介は遠ざかっていく背中をじっと見ていた。
 ああ、泣きそうだ。
 京介は鼻の奥がつーんと痛かった。
 これが失恋の痛み? いや違うだろう。たぶん、これからもっとひどいやつがくるんだろうな。
 そう思いながら、京介はとりあえず夕日に染まる空を仰いだ。

          6

 振られた、と春菜に告げた。
 馬鹿ね、と春菜は答えた。
 春菜の部活終わりを待って、京介たちは一緒に帰る途中だった。
 期限の一週間が今日だった。
 その答えがさっきのやりとりだ。
「振られたんだから、私のこと考えてくれないわけ?」
 冗談っぽく、春菜が言った。
「春菜だって、他に男はたくさんいるだろ?」
「お互い様ってわけか」
「だな……」
 沈黙が流れる。
 結局のところ、二人ともなにも得られなかった。唯一得られたのは、桐原先輩が春菜の写真を撮れたことだろう。
 桐原先輩とはこの間、廊下ですれ違った。京介が頭下げると、桐原先輩もわずかに首を傾けてくれた。
「私、たぶんしばらく京介のこと好きなままだと思う」
 春菜がさっきまでの笑顔を引っ込めて、遠くの空を見るように目を細めていた。
 京介は春菜の言葉に、心の中だけで相づちを打った。
 しばらくは、このじくじくとした痛みを抱えなきゃならないんだろう。
 それこそ、田所にナメクジ呼ばわりされながら。


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