札幌 マンション RMT

第1回 わかやすさ、その危うさ

 わかりやすく書く。物語を書く上で、第三者に伝える上で、どうしても考えざる得ない問題だと思う。
 数年前まで、僕の中の最も大きな問題でもあったし、色々と考えもした。議論もした。今はなくなってしまった某小説投稿サイトでの、激論にも参加したことがある。
 つまり、みんな引っかかっている問題だということは間違いないだろう。
 ただ、引っかかり方はそれぞれのようで、大まかに分けると、わかりやすく書くべき派と、読者に迎合すべきではない派に分かれるようだ。
 でも、今回はこの議論についてではない。この議論は平行線だ。なぜなら、どちらも表現技術の問題であり、どちらが正しいということはないからだ。どちらの技術を用いるか、という問題であり、それは作品や作風や作者の気分にだってよるだろう。それについて考えてしまうこと自体が、泥沼にはまっていることになる。
 で、本題だ。
 これとはまったく別次元で、わかりやすく書くことが命題とされているジャンルがある。児童文学だ。絵本、幼年童話など、それぞれの対象年齢を意識して書かなければならないジャンルであるこの児童文学は、最初から強烈な縛りを抱えている。それが、対象年齢にわかるものを書かなければならない、ということ。
 これは、わかりやすく書く論議以前の問題で、ジャンルとして成立するためには、その年齢にわかるように書かなければならない。時にその作者の描きたいものを押し殺してでも、表現しなければならない。厄介なジャンルである。
 だからといって、それを不自由だと感じる人には、このジャンルはやっていけないかといえばそうとも思えない。このジャンルを不自由と感じる人でないと、このジャンルはやっていけないのではないかとすら思う。
 何事も気づくことが重要だからだ。自分が自由なのか不自由なのかに無自覚に書いていて、果たしてステップアップしていけるのか? 疑問が残る。
 不自由さを知ることで、自由の尊さを知ることもある。児童文学と小説の両方を書いていると、時々そのことを感じずにはいられない。


2006-09-01 21:04




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